2007年2月22日 (木)

隣の男 (下)

(上)からつづく

 さて、この作品から私の登場する場面を抜粋引用して若干の解説を試みてみよう。(以下、太字部分が原文)文中、辺根とは私、杉本である。

実際、砂利の多い道である。道路工事をはじめるために砂利を敷いたのか、それとも単に砂利を置いたのか分からぬが、胼胝のある江分利の歩き方は自然に老人のようになる。背を曲げ、下を向き、具合のよさそうな石を拾って歩かねばならぬ。
 砂利は、その他にも実害をおよぼした。江分利の勤めている東西電機の社宅12軒のうち、江分利家と他の3軒が道路に面していた。
 ある日、隣に住む営業1課の辺根がいうには、昨夜寝ているときに拳大の石が飛んできてガラス戸を破ったという。幸い網戸と2重になっていたので大事には至らなかったが、「寝ていて交通事故に会うんやから、かないまへんわ」と辺根がいうのは、その石が、トラックだかミキサー車だかのタイヤではじき飛ばされたものだったからである。

<杉本解説>
 表の砂利道に面したわが家が砂埃と撥ね石の被害に遭う条件がいちばんととのっていた。ある蒸し暑い真夜中にガラス戸を破って飛び込んできたのはそれまでで最大の鶏卵大の石だった。翌朝、庭の垣根越しに山口さんにそのことをボヤイたのが、まさか小説のネタになろうとはその時は知る由もない。鶏卵大を拳大と吹聴したのは些か白髪三千丈のきらいがないとはいえない。この石は直木賞記念として油性ペンで年月日と由来を書いて大切に保管しておいたのだがいつの間にかどこへしまい込んだか行方不明になったままである。

ところで平成15年1月、山口瞳の会の翌日40年振りにこの「聖地」を再訪した。話には聞いていたのだがこの社宅は高級マンション風に立派に建て替えられて当時の面影はほとんど残っていない。埃っぽい砂利道も舗装道路になり田圃も畑もまったく見当たらない。これは江分利満が住む環境ではない。駅から社宅まで歩いたなかで記憶にあるのは小学校のグラウンドだけ、まさに竜宮城から帰ってきた浦島太郎の心境である。訪ねて行かなければよかったのかも知れない。

 石塀で仕切った隣家の辺根と顔があうことがある。辺根はだまって自分の庭に目を落とす。 可憐な、あるいは強靱な、あるいは逞しい、つまりいかにも雑草らしい雑草が無秩序に生い茂っている。モダンなテラスハウスだけに、いっそう痛ましい感がある。目が合っても、何もしゃべらない。これが社宅のエチケットである。しゃべっても、せいぜい、「精が出ますな」 とか 「公園みたいになりましたな」 とか言う程度である。

 社宅のつきあいは難しい。昇給のことボーナスのこと人事の噂etcが飛び交うとイケナイ。会社と社宅の生活とをキッチリ峻別するのが気持ちいい社宅生活の秘訣でもある。ゆうべのナイターの巨人戦でわが大洋の桑田武が満塁本塁打を打ったの見ましたか、見た見た などという話題がいちばんよろしいのである。そういえば山口さんとの話題でいちばん多かったのはプロ野球と六大学野球のことだった。その頃の大洋ホェールズには早稲田、明治の出身者が多く、ヒイキ選手のゆうべの成績で議論したものだ。

今年の4月、珍しく辺根が鍬を振るっているのを見た。3週間ほど経って、芽が出そろった。庭の好きな江分利はうっかり禁を破ってしまった。 
「出ましたね、キレイですね」 

 江分利は自分の庭が美しすぎるのに負い目を感じていた。
「コスモスじゃないですか?」

 辺根は黙っていた。 
「コスモスはいいですよ。つきはなす貨車コスモスのあたりまで。正一郎という人の句だそうですが、コスモスとかカンナとか月見草なんてのは、なんとなく田舎の駅の感じですね」江分利は辺根が汽車好きなのを知っていた。  「旅情がありますよ、それに・・・」

 辺根が低くさえぎった。 
「コスモスじゃありませんよ・・・二十日大根です」 
 だから、社宅では口をきいてはいけないのである。

 ことわっておくが辺根に羞恥も自嘲も怒りもない。明るく淡々としてこだわらない。ドライである。恥じたのは江分利の方だ。

 コスモスが4月に咲くわけがないのである。秋櫻とも呼ぶように9月から10月末にかけてどこにでも咲く。ちなみに汽車関係でいえば「コスモス咲き駅長は持つ大時計」という句が歳時記にのっている。二十日大根の花を咲かせようとおもったわけではない。何も知らずに蒔いた種がたまたまそうだったわけで内心慚愧に耐えないのである。

金網を危害予防のために2倍にするとすれば、道路に面した、江分利・辺根・川村・佐藤の4軒が結託しなければならぬ。 一番の被害者であり、事務に堪能な辺根が「社宅補修願」を書いた。
 1。某月某日、拳大の石が飛んできて、辺根家の1階のガラス戸を破りました。 2.. ・・・

私が堪能というよりほかの3人が事務にカラキシ弱いのであり被害者が書くのが迫力があっていいし組合の書記長やってるから総務課長の決裁判断のツボを押さえていて要求を通しやすいというところである。その成果で結局金網は立派なブロック塀になった。あとで総務課に聞いたら金網を2倍にするよりブロック塀の方が安上がりということだった。

 
辺根家の雑草庭園の話が出たとき、夏子は言った。 「あの人たちは、なんにもなくてもいいのよ。2人だけで充実してるのよ。とても庭どころじゃないのよ」辺根は新婚6ヶ月である。

えへへ、そうなんです。じつはナンニモナクテモイイのではなくて実際ナンニモナイのであった。8畳一間の間借りから引っ越してきたのでゼロからの出発である。妻はお隣の治子夫人には何かとお世話になったようである。

「ようである」というのは私は残業や休日出勤が多いから家庭のことはほとんど知らない。東京に身寄りのない新婚の妻は家事のことや近所の買い物のことなどいろいろ相談相手になっていただいたそうである。

社宅12軒に電話は1本しかない。当時の電話事情はそんなもので会社はいちばん業務上の必要の大きい山口家に設置したようだ。そのために他から架かってきた電話の取り次ぎで治子夫人は忙しい目をされた筈である。私の妻が出産の前後には病院との連絡で何度も面倒をお掛けしたものである。

 社宅の前の通りをへだてて、約2千坪の田圃があり、矢島が犬を追っている。辺根が中央でクラブをおおげさに構え、糸のついた練習ボールを打っている。

たいていはカラぶりだったことは遠くからは見えないのであった。その広い田圃だが40年振りで訪ねてみればこわいかに、どこにでもある有料駐車場に変貌していた。

 田圃の真ん中でゴルフをしている辺根のことにしたってそうだ。彼にゴルフの腕前をきいてはいけないのだ。  社宅では、辺根がゴルフリンクへ行っていないということが、おおよそ知れているので、だからウッカリ腕前をきけば、侮辱を与えるというふうに勘ぐられてもしょうがない。

 辺根のことだから 「いや、私のは体操です」ぐらいに軽くうけながしてしまうだろうが。ゴルフの大嫌いな江分利には、辺根のやり方がゴルフ全体を馬鹿にしているようで気持ちがいい。

 私がゴルフ場へ行ったことがないのは事実だが、腕前とは関係ないのである。
ゴルフを始めてクラブのハーフセットを買ったのはサラリーマンとしては早い方で昭和33年ごろだが、経済成長とともに猫も杓子もゴルフ熱に浮かれてきたので天の邪鬼精神がもたげてバカらしくなっただけのことである。いったいゴルフを馬鹿にしているのかゴルフに馬鹿にされているのかは定かではない。爾後半世紀近く経つがその関係は変わることがない。

 社宅には、かなりの異動があった。 隣家の辺根は去年の暮に福岡へ転勤となった。雑草庭園を通してきたのが、子供が生まれてから芝生になった。

 なにも好きこのんで雑草で通したわけじゃない。東京勤務も7年目になっていたしソロソロ転勤との予想もあり、せっかく庭に手を入れても、という思惑からつい雑草の繁るにまかせていたのだ。子供ができて庭で日光浴をさせていても砂埃で鼻の穴が黒くなるという事態が生じたので緊急対策の必要から決心をした。山口さんの親戚(義弟さん)の造園店から芝を安く分けてもらって庭一面に張りつけた。ようやく根がついて芝生らしくなり赤ん坊を安心して日向ぼっこさせられるようになったら翌年の春、「本社転勤を命ず」と来た。これにはマイッタね。

「芝を植えると転勤になるちゅうジンクスはホンマやね」 辺根は、トラックの助手席からそう叫んだ。2階の棚の板はよかったら使ってくださいとも言った。辺根夫人は九州の出身だから、辺根自身も転勤が嬉しそうだった。

そのジンクスはホンマである。折角植えた芝生を全部はがしてトラックに積み込むのはなんだか後ろめたいような気がして半分だけをはがしてトリスの段ボール箱に詰めた。このへんのカネアイが社宅生活の微妙なところである。こうして運んだ芝生を大阪茨木市の社宅に持っていって植えつけた。だが関東の芝は大阪の土に合わないのか、やがて消えてしまった。やはり東西文化の差なのだろうか。因みに、そのジンクスに根拠のないことが後年(それから7年経って)私が本社人事課長になったときハッキリした。人事異動にはそんなものは関係ないのである。当たり前か。

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「江分利満氏の優雅な生活」と「江分利満氏の華麗な生活」の中から「辺根」の登場場面を取り上げて合いの手を入れてみた。作品の中で名前が出てくる人物には実在のモデルがいて例えば「赤羽常務」は平井常務、「佐藤勝利」は山本勝、「川村」は川崎、「矢島」は中西・・と内部の者にはわかるのである。しかし、杉本がなぜ「辺根」なのか、作者に問うこともないまま永遠に謎となった。その真意を訊くことはなかったが秘かに推察していることがある。
 その頃のこの会社には「変わったこと」「他がやらないこと」「変だと思うようなこと」「珍しいこと」や、そういう人間にイチモク置くような風潮があり、伸び伸びと自由闊達な空気に満ちていたものだ。「辺根」は「変だねぇ」の含意だとすれば作者から与えられた褒美だと勝手に解釈している。
 ほんまに変やねぇ。                         (完)

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隣の男 (上)

この文は「山口瞳通信 其の参」2003.8.25発行 に掲載された。

平成十四年も歳末クリスマスの日だった。未知の人から一通の封書が届いた。DMや心当たりのない郵便物は屑籠に直行させるのが常なのだがすこし気になって開封したらそれは「山口瞳通信 其の弐」という小冊子と中野さんという方の鄭重な挨拶状で「山口瞳の会」なる会合へのご案内である。インターネット上の私のホームページを見られて山口さんとの関わりに興味を持たれてのことらしい。恐るべしインターネット時代、悪いことはできませんね。

というわけで、1月25日の会合にも出席して7年振りで治子夫人とお目にかかることが出来、案じていたよりずっとお元気な様子に安心した。正介さんとは彼が小学校5年生で社宅の庭で当時1才の娘の相手をしてくれたころの印象しかなくて、貫禄ある中年オヤジ風には戸惑ったが娘も今や中年のオバハンしてるのだから当然だよね。

山口瞳の会の皆さんの話を聴いていてその熱心さに驚くばかりである。私などは文学論からは最も遠いところに生きていてここに参画する資格はないのだが、同じ職場で偶々のご縁で社宅の隣人として山口さんご一家と付き合いがあっただけのこと。そのことで何か書けとのご命令である。ハイ、わかりました、謹んでお受けいたします、ということになったわけである。

「江分利満氏の優雅な生活」は川崎市木月大町83番地の東西電機社宅から始まる。だからそもそもこの社宅の淵源から話さなければなるまい。

1960年代は日本にとって大変化の時代だった。高度成長が確実になり産業構造も日常生活のスタイルも大きく変わった。団地ができテレビやステレオ、冷蔵庫などが普通の家庭で見られるようになった。サラリーマンもみんな将来への希望に燃えていた。

50年代までは洋酒の壽屋(現サントリー)という大阪商人の会社も東京では知名度は低かったが「もはや戦後ではない」と経済白書が唱えたころから生活の洋風化の波に乗って(波を自らつくって)洋酒ブームが起こり圧倒的に市場の大きい東京へと営業や宣伝の主力を移動させることになる。大阪弁しか喋れない社員の多くが東京転勤になってまず戸惑ったのが東京弁(断じて標準語に非ず!)である。私が本社から東京支店に転勤になった55年には支店の社員約60人のうち男子はほとんどが大阪人、女子は全員東京人だった。   得意先や取引先では大阪弁はバカにされるので無理して慣れない東京弁を操り、貴社するとホッとしたもんだ。ハキハキした東京弁を喋る女子社員が賢く見えてついフラフラと社内結婚してしまった奴が何人も居た。

景気はよく会社も儲かり給料は毎年上がりボーナスも年間10ヶ月が常識で衣食は足ったが、住宅事情は劣悪で特に転勤組は東京の狭い・高い家賃に悲鳴をあげた。労働組合の活動の重点が住宅問題の改善におかれることになる。私は東京転勤間もなく労組支部の執行委員(翌年からは書記長)に選出されるのだが別になりたくてなったわけではない。会社に対して言いたいことをいう奴が一種の人気投票みたいに選ばれただけであって、執行委員仲間には開高健、坂根進(のち、サンアド社長)というヒトクセもフタクセもあるウルサイのが屯していてさながら梁山泊の趣きであった。開高健さんとの関わりも面白いがここでは触れない。

会社の社宅制度は不動産市場から一般の住宅を借り上げて社宅扱いにするというやり方で間に合わせていたが転勤組の増加につれて到底追いつかなくなり、労組の強い要求もあり、自前の集団社宅を建設することになったのが61年のことだったと思う。私は経理課員であり労組役員でもあったから、会社が社宅建設のための土地を購入し建設会社と契約するとの情報を早期に知ることができた。好機逸すべからず。上京以来6年間、独身寮生活を謳歌してきたがソロソロ年貢を納めるなら新築社宅入居を狙うべしとの戦略を定め、62年11月に寮生活に終止符を打って結婚式を挙げた。新居は知人の紹介で池上線「旗の台」にある旧陸軍中将閣下の邸宅の玄関脇の8畳一間を間借りしてのナンニモナイ新婚生活が始まった。

新築の集団社宅はニコイチ(2戸で一棟)6棟の瀟洒な2階建で12世帯が入るのに希望者は20人を超えた。会社の総務課は入居者選定を公平かつオープンにするため労組と合同で選考基準を決めて書類審査をした。その結果栄えある「住宅困窮者」として選ばれた12人の中に、山口さんや私が入ったという次第なのである。そういうワケで「江分利満氏の優雅な生活」を語るにはこれだけの前置きが必要なことがご理解いただけましたか?

川崎市木月大町は東横線元住吉駅から徒歩で約10分、近くに法政大学グラウンドがあって風の強い日など関東ローム層特有の砂埃がひどい。駅から社宅までは駅前を除けばあとは両側は畑で道路は砂利だらけで雨が降ればヌカルミと化すから雨靴が必携というのんびりした田舎であった。私がここに入居したのは結婚1ヶ月後の昭和37年も暮れのこと。会社から指定されたのが社宅の入口にいちばん近い端の部屋で同じ棟の壁一重隣の部屋の主は一足先に入居していてそれが宣伝課の山口さんであった。開高さんの「洋酒天国」編集者募集の呼び掛けに応じて入社した年増の新入社員ということぐらいは知っていたが個人的なお付き合いはそれまではなかった。「江分利満氏の優雅な生活」の表紙カバー(ハードカバー、文庫本とも)の柳原良平さん描く社宅建物の画の向かって右が山口家、左が拙宅でよく見ると庭の広さが微妙に違うのである。

(下)へつづく

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